句読点。
句読点
世の中には、それ自体にはさほど意味がないけれど、
しかしそれがあるのとないのとでは世界がまったく違うものになる、という存在がある。
たとえば、文章の中にところどころ現れる句読点。
句読点自体にはさほど意味がないし、使わなくとも意思の伝達は可能だ。
しかし、句読点のまったくない文章はきっと息苦しいものになる。
同じ内容のものであっても、句読点のあるなしでまったく違う文章として伝わるだろう。
あるいは、絵画における余白部分。それ自体にはまったく意味がないけれど、余白があるからこそ引き立つ主題がある。
あるいは、曲と曲の合間に挟まれる無音の時間。
あるいは、会話の途中に挟まれる無言の時間。
日本人はそうしたものの存在を古くから大切に扱ってきた民族であると思う。
「マヌケ」という言葉もそのあらわれだろう。
物事と物事の間にある「間」の大切さが分からない人を、全体の調子を狂わせ、チグハグなものにしてしまう「間抜け」な人と呼んだのだ。
なんでもかんでも詰め込んで、なにもかもに意味を見出し、無駄な時間を減らし、生産的な時間の使い方をしよう!
という生き方は、句読点のない文章のように、どこか息苦しさを覚えてしまう。
もちろん、間が多すぎても「間延び」してしまい、メリハリのないものになるのだけど、間がない生き方は「間抜け」な生き方なのではないだろうか。
なにかに行き詰まったときに、ちょっと一息、とお茶を丁寧に淹れること。
日常の喧騒を離れて、1人静かな環境の中に浸ること。
考え事をやめて、深く、深く、息を吸い、吐くこと。
日々の中にこうした「句読点」を持つことは、生きるリズムを整える上でとても大切なことだ。
このブログも、読む人にとっての「句読点」的な存在になれればと思う。
気まぐれに、あまり気負わずに、更新していきます。